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山形地方裁判所 昭和53年(ワ)52号 判決

原告

中村紀子

原告

中村光也

原告

中村かおり

原告中村かおり

法定代理人親権者母原告

中村紀子

原告

中村とみゑ

原告

村岡リサ

右原告ら訴訟代理人

織田信夫

右訴訟復代理人

荒中

被告

山形県

右代表者知事

板垣清一郎

右訴訟代理人

吉澤茂堂

饗庭忠男

外二名

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告中村紀子に対して金一四二二万九〇〇〇円及びうち金一一三二万九〇〇〇円に対する昭和五一年三月一六日から、うち金二九〇万円に対する昭和五三年三月四日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告中村光也、同中村かおりに対して各金九九二万九〇〇〇円及びこれに対する昭和五一年三月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告中村とみゑ、同村岡リサに対して各金五五万円及びうち金五〇万円に対する昭和五一年三月一六日から、うち金五万円に対する昭和五三年三月四日から各支払ずみまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  診療契約

訴外亡中村與四一(以下「与四一」という。)は、昭和五〇年二月七日、慢性中耳炎及び難聴の治療のため被告の設置する山形県立中央病院(以下「中央病院」という。)で同病院耳鼻咽喉科医師大竹欣哉(以下「大竹医師」という。)の診察を受け、同日、被告との間で、慢性中耳炎及び難聴の治療を目的とし当時及び治療期間継続中における日本の医学界の最高の知識と技術を駆使して最善の治療行為(聴力回復手術の施行を含む。)を施すこと並びに治療行為から著しくかけ離れた結果(与四一の死亡等)の発生を回避することを内容とする診療契約を締結した。

2  本件事故の発生

与四一は、慢性中耳炎及び難聴の治療として鼓室成形術を受けるため、昭和五一年三月一三日に中央病院に入院し、同月一五日(以下「本件手術日」ともいう。)午前八時三〇分ころ手術のため予備麻酔の注射を受けて手術室に入室し、中央病院の本田弘医師(以下「本田医師」という。)によつて麻酔剤である一パーセントキシロカインE注射液を使用した局所麻酔術を施されたところ、同日午前九時四〇分ころ、異常な高血圧と頻脈を呈したのち急性抹梢循環不全状態(ショック)に陥り、同日午後零時四〇分ころ死亡するに至つた。〈以下、省略〉

理由

一診療契約

与四一が昭和五〇年二月七日、慢性中耳炎及び難聴の治療のため被告の設置する中央病院で同病院耳鼻咽喉科大竹医師の診察を受け、同日、被告との間で、右治療を目的とした診療契約(準委任契約)が締結されたことは当事者間に争いがない。原告らは、右診療契約は、当時及び治療期間継続中における日本の医学界の最高の知識と技術を駆使して最善の治療行為を施すこと並びに治療行為から著しくかけ離れた結果(患者の死亡等)の発生を回避することを内容とするものである旨主張するが、診療契約に基づく医師側の診療義務は、患者に対し一般的医学水準に従つて通常要求される程度の注意を払つて診療行為をすれば足りるものであつて、特段の合意のない限り、原告ら主張のような意味での結果回避義務までも含むものではないと解すべきであつて、これに反する原告らの右主張は独自の見解であり、当裁判所の採用するところではない。そして、本件全証拠によつても、右特段の合意がなされたことを認めることはできない。

二本件事故の発生

1  与四一が慢性中耳炎及び難聴の治療として鼓室成形術を受けるため昭和五一年三月一三日中央病院に入院し、同月一五日午前八時三〇分ころ手術のため予備麻酔の注射を受けて手術室に入室し、本田医師によつて麻酔剤である一パーセントキシロカインE注射液を使用した局所麻酔を施されたところ、異常な高血圧と頻脈を呈したのちショックに陥り、同日午後零時四〇分ころ死亡するに至つたことは、いずれも当事者間に争いがない。

2  〈証拠〉を総合すると、以下の各事実が認められる。

(一)  与四一は、昭和五〇年二月七日、両耳の慢性中耳炎及び難聴の治療のため、被告の設置する中央病院耳鼻咽喉科大竹医師の診察を受けたころ、同医師から、鼓室成形術を受けるのが適応と診断されたので、同月一〇日、同医師に右手術の施行を依頼した。ところが、その後手術日が明確に決まらないまま一年が経過してしまい、昭和五一年二月一七日には中央病院に診察を受けにきた与四一から右手術を農閑期の同年秋にしてほしい旨の申出があつたが、同人の症状が悪化したため、大竹医師は、同年二月二五日、急遽同年三月一三日入院、同月一五日手術と決定し、症状の重い右耳から手術を施行することにした。

(二)  与四一は、同月五日、右手術のため、血液検査、尿検査、心電図計測、胸部レントゲンの諸検査を受けたが、心電図上一分間の脈搏一〇五という洞性頻脈がみられ、検査者によつて肺性Pの疑いがもたれた以外異常は認められなかつたので、予定どおり同月一三日中央病院に入院した。その際、本田医師が与四一を診察したところ、脈搏も一〇〇以下で異常はなく、また、同日の入院後の測定では脈搏七八、血圧一三〇/八〇と異常はなかつた。右入院後本件手術前までの同人の一般状態には格別の変化がなく、同人は睡眠、食事も十分にとり、同月一四日夜大竹医師が診察したときも異常は認められなかつた。

同月一五日の手術は、本田医師が局所麻酔術及び耳介部切開を施行し、その後大竹医師が鼓室成形術を施行することとなつた。

(三)  与四一は、術前処置として、同月一五日午前七時三〇分ころオピスタン、カクテリンを、同午前八時三〇分ころオピスタン、アドナを各筋注され、また、午前八時ころの計測によれば、同人の脈搏は七八、血圧は一一〇/六〇であり、一般状態に格別の変化はなく、同人は、同日午前九時三〇分ころ手術室(二号室)に入室した。

(四)  与四一の手術には、高橋敏子看護婦が手術機械係の直接介助者として、岡崎祐太郎看護士が血圧・脈搏・呼吸を測定し、一般状態を観察する間接介助者として立会い、右岡崎が入室直後の与四一の血圧等を測定したところ、血圧は一四二/九〇、脈搏は九八で、一般状態の観察にも異常は認められなかつた。同日午前九時四〇分ころ、本田医師の指示により与四一に止血剤と抗生剤を点滴し、午前九時五〇分ころ、本田医師が、患部を消毒して覆布を固定するために右耳介部付近に一パーセントキシロカインE液二ミリリットルを三か所に分注したのち覆布を固定した。

次いで、本田医師は、同日午前九時五二分ころ、局所麻酔術(浸潤麻酔)を開始し、局所麻酔剤である一パーセントキシロカインE液二〇ミリリットルを二ミリリットルの注射器を使用して右耳付近(右耳の上方、後方、下方等)約二〇か所に約二分ないし三分間で分注した。

その間、前記岡崎は、与四一の顔面が見える位置で、同人の腕に血圧計をまいたまま、また脈搏がわかるように同人の腕を押さえながら、血圧等の測定や一般状態の観察をしていたが、右麻酔のための注射をし終えた直後の午前九時五五分ころ、突然与四一から気分不良(嘔気)と後頭部痛を訴えられ、測定の結果、血圧が二五〇/一五四、脈搏が一三四と異常を示し、顔色にも変化が現われたので覆布をとると顔面にチアノーゼが出現しており、本田医師が直ちに頸動脈に触れたが脈搏は微弱であり、血圧も急降下し、呼吸停止の状態になつた。そこで、本田医師は、ショックと判断し、直ちに気道を確保するため右岡崎に指示して、手術室前の冷蔵庫の上にあつた挿管チューブを持つてこさせ、午前九時五七分ころ与四一に右挿管チューブを挿管して気道を確保し、酸素吸入器によつて酸素を吸入し、更に、右岡崎の応援依頼に応じて、右手術室の近くの六号手術室で手術を行つていた伊藤道生、井坂晶両医師(いずれも外科医)がかけつけ、直ちに閉胸式の心臓マッサージを行い(午前一〇時前)、同時にメイロン(血液pH補正剤)、ソルコーテフ(副腎皮質ホルモン)、塩化カルシウム(心筋収縮剤)、ノルアドレナリン(血圧上昇剤、心筋収縮剤)を投与し、右股静脈に点滴して血管確保を行つた。しかし、与四一の症状は改善せず、心室細動の状態であり、右のような人工呼吸、心臓マッサージを続け、カルニゲン、プロタノール、メイロン等の薬剤を投与し、更に、午前一〇時二〇分ころ、乙供通稔医師(心臓外科医)によつて直流式除細動を行つたが心室細動はとれなかつた。その後も右各措置を続けたが、症状は改善せず、午前一一時三分ころ、小泉誠二医師(胸部外科医)によつて開胸式心臓マッサージが行われ、また腹部が膨隆してきたため、午前一一時一五分ころ、飯野養一郎医師によつて開腹術が施行され、肝臓に左右葉をほぼ両断する亀裂があつたため、左葉を切断し、断端を縫合し、その後も心臓マッサージ、人工呼吸、薬剤投与を続けたが、蘇生術に反応せず、午後零時四〇分脳死と確認し、蘇生術を中止した。

乙第四号証の二には、本件手術日当日の経過に関して右認定に反する記載部分があるが、証人本田弘の証言及び同号証によれば、同号証は、本田医師が当日与四一が死亡して間もなくの午後二時三〇分ころから午後三時ころまでの間に、岡崎看護士が記載した乙第八号証の二をもとにしながら記載したものであること、本田医師は右乙第八号証の二の午前九時三〇分入室との記載を本田医師の入室時刻ととり違えたこと(証人岡崎祐太郎の証言によれば、乙第八号証の二の九時三〇分の記載は与四一の入室時刻を示すことが認められる。)、乙第四号証の二に記載された時間は、乙第八号証の二に記載されているもの以外正確なものではないこと及び乙第四号証の二には麻酔薬の量を誤つて一〇ccと記載されていることが認められ、右によれば乙第四号証の二及びこれをもとに作成したものと推測される甲第三二号証の各記載中前記認定に反する部分はその正確性に疑いがあり、前記認定を左右するものではない。

また、証人村岡四郎は、本件手術日当日の午前一一時三五分すぎころ、大竹医師から、午前九時四〇分ころに与四一がショック状態に陥り、現在蘇生術を施行中である旨説明を受け、甲第三六号証の六にその旨記載したと供述する。しかし、証人大竹欣哉の証言によれば、大竹医師は右ショック状態に陥つたときにはその場におらず、同日午前一〇時すぎに手術室に入つたものであることが認められ、また本田医師らはショック状態の出現後蘇生術の施行に専念していたことは前記認定のとおりであつて、右によれば、大竹医師が右村岡四郎らに説明したときに時間の経過について正確に把握していたものということはできないから、右証人村岡四郎の供述部分及び甲第三六号証の六の記載も前記の認定を覆すものではない。

三与四一の死亡の原因

前記認定の与四一の発症の経過及びその症状並びに証人山本亨及び同北濱睦夫の各証言、鑑定人山本亨及び北濱睦夫の各鑑定の結果を総合すると、与四一に生じた前記認定のショック(血圧降下、脈搏微弱、心室細動、呼吸停止)は、本件局所麻酔剤であるキシロカインE液に含まれる血管収縮剤であるエビレナミンが作用して心原性ショック(心臓が原因でショックを起こすもの)を起こしたことによるものである可能性と、同液中に含まれる防腐剤(安定剤)であるメチルパラベンの作用によるアナフィラキシーショックによるものである可能性とがあり、そのいずれとも認定することはできないこと、いずれにしても、右液が与四一の血管内に入つたことは否定し得ないことが認められる。

鑑定人山本亨の鑑定及び同北濱睦夫の各鑑定中には右認定に反するかのごとき部分があるが、証人山本亨及び同北濱睦夫の各証言によれば、医学的に右原因の一方を否定することはできず、いずれも与四一死亡の原因となりうる可能性があることが認められるのであつて、右各鑑定部分は前記の認定を左右するものではなく、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

四債務不履行責任

1 原告らは、与四一と被告との間の診療契約は治療行為から著しくかけ離れた結果を回避することを内容とするものであるから、被告が右契約に基づき右のような結果を回避すべき債務を負う旨主張するが、前記一のとおり、右診療契約は右のような結果を回避することを内容とするものであるとは認められないので、被告が右のような結果を回避すべき債務を負うものとは認められない。したがつて、被告が右のような結果を回避すべき債務を負うことを前提とする原告らの債務不履行の主張は、理由がない。

2  原告らは、大竹医師が与四一との間で、同人の聴力回復手術(鼓室成形術)を当時の新潟大学医学部耳鼻咽喉科中野雄一教授が施行する旨約したので、被告は、右手術を中野教授に施行させるべき債務を負つたものである旨主張する。

しかしながら、原告ら主張のように、大竹医師が与四一との間で、右中野医師が本件手術日当日与四一の鼓室成形術を施行する旨約したことを認めるに足りる証拠はない。証人村岡四郎及び原告中村紀子本人の各供述中には、原告らの右主張にそう部分があり、また証人大竹欣哉の証言によれば、与四一の鼓室成形術を施行する日を決定した昭和五一年二月二五日以前に、大竹医師が与四一に対し、同人の手術について右中野医師の都合がつけば同医師に施行してもらう旨話したことが認められる。しかし、前掲乙第一号証の一ないし六、証人大竹欣哉の証言及び原告中村紀子本人尋問の結果によれば、大竹医師は、与四一から、昭和五一年二月一七日には農閑期の同年秋に手術を受けたい旨の申し入れを受けたが、その後同人の病状が悪化したため、同月二五日、与四一から、農繁期になる前に早急に手術を受けたい旨要請されたので、同日、中野医師の都合を聞くこともなく、急遽中央病院の手術室等のあいている同年三月一五日に手術を行うことと決定したことが認められ、右の経緯及び証人大竹欣哉の証言に照らすと、前記の証人村岡四郎及び原告中村紀子本人の各供述部分は、右手術日当日に右手術を中野医師が施行することを被告において約したことを認める証拠として採用することができない。

また、前記認定のとおり、本件事故は鼓室成形術の施行以前の麻酔術施行直後に発生したものであつて、本件全証拠によつても中野医師が鼓室成形術を施行することになつていたとしても、本件と異なつた麻酔方法をとつて、本田医師に右麻酔術を施行させなかつたとの事実を認めることはできないから、仮に原告ら主張のような合意があつたとしても、中野医師が鼓室成形術を施行しなかつたことと、与四一の死亡との間に相当因果関係があると認めることはできない。

したがつて、原告らの前記主張はいずれも理由がない。

3  原告らは、被告が与四一の精神的肉体的状態について詳細に聴取すべき義務がある旨主張するが、与四一が手術日当日ころ麻酔術及び鼓室成形術を施行するに耐えられない程度に精神的、肉体的に疲弊していたことを認めるに足りる証拠はない。かえつて、前記認定のとおり、与四一は、入院当日からその一般状態、血圧、脈搏等に異常はなく、睡眠、食事も十分とつていたのであるから、被告に右のような義務があるものということはできない。また、原告らは、被告には与四一に対し中野教授による手術が行われないことを告知すべき義務がある旨主張するが、右中野医師が与四一の鼓室成形術を施行しないことと与四一の死亡との間に相当因果関係がないのであるから、中野医師による手術が行われないことを告知しなかつたとしても、与四一の死亡との間に相当因果関係があると認めることはできない。

したがつて、原告らの右主張はいずれも理由がない。

4  原告らは、与四一には循環不全の徴候が現われていたから、注射液として一パーセントキシロカインE液を使用するのが適切かどうか検査すべき義務がある旨主張する。

右注射液には血管収縮剤であるエピレナミンが含有されていることは当事者間に争いがなく、前記認定のとおり、昭和五一年三月五日の検査時に与四一には心電図上一分間一〇五という洞性頻脈がみられ、また検査によつて肺性Pの疑いがもたれたのである。しかしながら、成立に争いのない乙第四二号証、同第四四、同第四五号証によれば、洞性頻脈は、健康人でも運動、興奮、交感神経刺激などにより起こることがあり、必ずしも疾患の徴候とはいえないことが認められ、前記認定のとおり、与四一の右洞性頻脈は一過性のものであつて、その後洞性頻脈は現われておらず、他の諸検査、臨床所見等に異常を示すものはない。また、証人山本亨の証言並びに鑑定人山本亨及び同北濱睦夫の各鑑定の結果を総合すると、与四一の前記心電図には肺性Pは認められず、他に疾患を疑わしめる徴候はないから、更に精密検査をする必要はないこと、「肺性P?」と与四一の本件ショックとの間に関係があるとはいえず、したがつて本件麻酔術を禁忌とする理由にはならないことが認められる。以上の事実によれば、大竹医師らの行為に原告ら主張のような不適切な点は認められない。

したがつて、原告らの右主張は理由がない。

5  原告らは、本田医師が与四一に対する麻酔術の施行に対して要請される諸義務を怠つた旨主張するので、この点について順次検討する。

(一)  吸引テストの実施について

原告らは、本田医師が与四一に対し麻酔剤を注射する際に吸引テストをしないまま注射した旨主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。前記認定のとおりキシロカインE液が与四一の血管内に入つたことは否定し得ないが、証人山本亨及び同北濱睦夫の各証言並びに鑑定人山本亨及び同北濱睦夫の各鑑定の結果を総合すると、、キシロカインE液が血管内に入る経路について、静脈内に直接注入される場合、毛細血管内に直接注入される場合及び注射部位の組織から血管内に吸収される場合の三つの可能性があり、本件ではそのいずれとも確定し得ないが、血管内に注入されたとしても、注射針の先端が毛細血管を損傷し同血管内に注射液が直接注入され、或いは浸み込んだ可能性の方が高いこと並びに吸引テストをしても血管内への注入は必ずしも判然とせず、これを完全に避けることはできないこと以上の各事実が認められ、右各事実に照らすと、与四一の血管内にキシロカインE液が入つたことから本田医師が吸引テストをしなかつたことを推認することはできない。

かえつて、右吸引テストはキシロカインE液による副作用を予防するためになすべき基本的な注意事項であること(右事実は昭和五四年五月一〇日付の調査嘱託の結果によつて認められる。)及び証人本田弘の証言によれば、本田医師は、本件麻酔に際し、吸引テストをしながら注射したことが認められる。

したがつて、本田医師が吸引テストを実施しなかつたとの原告らの右主張は理由がない。

(二)  注射液の量について

原告らは、本田医師がキシロカインE液を二二ミリリットルも注射したことは多量に過ぎ不適切である旨主張し、乙第一四号証、同第四〇、同第四一号証中には、鼓室成形術のための局所麻酔として一パーセントキシロカインE液を五ないし一三ミリリットル使用する旨の記載があり、また前掲調査嘱託の結果によれば、本件麻酔剤の能書には副作用を防止するためできるだけ少ない量を使用する旨記載されていることが認められる。しかしながら、成立に争いのない乙第三二号証及び右調査嘱託の結果によれば、一パーセントキシロカインE液の基準最高用量は五〇ミリリットルであり、浸潤麻酔の場合の用量は二ないし四〇ミリリットルとされていることが認められ、右事実並びに鑑定人山本亨及び同北濱睦夫の各鑑定の結果に照らし、本田医師が一パーセントキシロカインE液二二ミリリットルを注射したことが麻酔術施行医として不適切な措置であつたと認めることはできない。

原告らの右主張は理由がない。

(三)  分注箇所の数について

原告らは、本田医師が血行の密な組織深部に二〇か所も注射したことを不適切な措置であると主張する。なるほど乙第一四号証、同第三八ないし第四一号証中には、鼓室成形術の場合の浸潤麻酔に関し多くて一三か所に分注する旨の記載があり(ただし、右の趣旨が、原告らの主張するように血管内注入の危険を避けるためか否かは不明である。)、分注箇所が多くなればそれだけ血管内注入の危険性が増すことは推測しうるところであるが、証人山本亨の証言によれば、仮に心原性ショックによるものであるとしても、本田医師が約二〇か所に分注したことと与四一の本件ショックとの間に関連性はないこと、証人北濱睦夫証言によれば、仮にアナフィラキシーショックであるとしても、右本田医師の分注と与四一の本件ショックとの間に関連性がないことがそれぞれ認められるのであつて、本田医師が約二〇か所に分注したことが与四一の死亡と相当因果関係があると認めることはできない。

したがつて、原告らの右主張は理由がない。

(四)  注射速度について

原告らは、注射速度はできるだけゆつくりとすべきであつて、本田医師の注射速度は早すぎる旨主張する。

前記認定のとおり、本田医師は、二〇ミリリットルのキシロカインE液を約二ないし三分間で注射したものであるところ、前掲調査嘱託の結果によれば、本件麻酔剤の能書には、キシロカインE液を注射する際は、ショック及び副作用の発生を防止するためできるだけゆつくりと注射する旨記載されていることが認められるが、証人山本亨の証言によれば、本田医師の前記の注射速度が早いとはいえないことが、また、右証言及び証人北濱睦夫の証言を総合すると、与四一の本件ショックが心原性ショックの場合であろうとアナフィラキシーショックの場合であろうと、キシロカインE液の注射速度と本件ショックの出現とは関連性がないことが認められ、右認定に反する証拠はない。右によれば、本田医師が二〇ミリリットルのキシロカインE液を約二ないし三分間に注射したことを不適切な措置であるということはできず、かつ、与四一の死亡との間に相当因果関係があるということはできない。

したがつて、原告らの右主張は理由がない。

(五)  患者の観察について

原告らは本田医師が与四一の術中の観察を十分行わなかつた旨主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。

かえつて、前記認定のとおり、前記岡崎看護士が間接介助者として与四一の身近に居て観察を行い、血圧、脈搏等の計測を行い、また証人本田弘の証言によれば、本田医師は術中随時与四一に声をかけ、状態の変化の有無に注意していたことが認められる。

したがつて、原告らの右主張は理由がない。

(六)  救急用具の配置について

原告らは、万一に備えて救急蘇生装置を手術室内に配置しておくべきであるのに、これを怠つた旨主張する。

証人岡崎祐太郎及び同伊藤道生の各証言によれば、与四一に対し麻酔術を施行した手術室内には麻酔器(人工呼吸器にもなる。)が、右手術室から約三メートル離れた向かいの器材室に救急薬剤、器具、挿管チューブが備え付けられ、緊急時にはいつでも直ちに使用しうる状態にあつたことが認められるのであるから、原告ら主張のように常にこれらを手術室内に配置しておくべきであるということはできない。また、前記認定のとおり、本田医師らは、与四一にショック症状が発現したのち速やかに気道確保、人工呼吸、心臓マッサージ、救急剤の投与(ショック発現後遅くとも四ないし五分間に開始している。)という救急蘇生術に必要な処置を行つているのであるから、原告ら主張の手術室内に救急蘇生装置を配置しなかつたことと与四一の死亡との間に相当因果関係があるということはできない。

したがつて、原告らの右主張も理由がない。

6  原告らは、本田医師が、与四一が高血圧と頻脈の状態になつたのを発見するのが遅れたので、直ちに適切な救急措置をとることができず、また、蘇生措置が不完全であつた旨主張する。

前記認定のとおり、本田医師らは与四一にショック症状が発現したのち直ちに蘇生術にとりかかり、前記のような蘇生術を行つたものである。また本田医師らが与四一の異常の発見が遅れたことを認めるに足りる証拠はない。

そして、山本鑑定、北濱鑑定並びに証人山本亨及び同北濱睦夫の各証言によれば、本田医師らが行つた前記各蘇生術は適切であつたことが認められる。前記認定のとおり、与四一に対する心臓マッサージによつて同人の肝臓に亀裂を生じさせ出血させたのであるが、蘇生のためにやむをえない結果というべきであり、また、ショック発現後与四一は呼吸停止、心室細動の状態に陥り、蘇生術を三〇分以上行つても何らの改善もみられなかつたこと、肝臓亀裂は蘇生術を開始してしばらくしてから(早くても三〇分以上経過してから)生じたものと認められることからすると、肝臓亀裂による出血と与四一の死亡との間に因果関係があると認めることはできない。

7  その他、原告ら主張の本田医師らの診療行為上の不適切を認めるに足りる証拠はない。

以上のとおりであるから、原告らの債務不履行の主張はいずれも理由がない。

五不法行為責任

前記三の5で判断したところによれば、本田医師らの行為には原告らが主張するような過失を認めることはできないから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの右不法行為の主張は理由がない。

六結論〈省略〉

(裁判長裁判官井野場秀臣 裁判官小野田禮宏 裁判官竹内民生)

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